【後編】誰が「怪物」で誰が「人間か?」『ノートルダムの鐘』を徹底検証する〜フロロー判事ともう1人のヴィランズ

2020/05/14

WDAS ディズニールネサンス

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注: 本記事は【[前編]誰が「人間」で誰が「怪物」か?ノートルダムの鐘を徹底検証する】のつづきとなっております。後編のみでも読めるようになっていますが、良ければ前編もご一読お願い致します。



(ここからは本編のネタバレを含みますので、
先に映画を視聴しておくことをお勧めします)





    本当の「怪物」とはいったい誰なのか?






感想文なのにエモいとか使ってごめんね。



さて、ここからは『ノートルダムの鐘』のストーリーを際立たせるヴィランズについての話をしていきます。


ノートルダムの鐘 フロロー判事



本作のヴィランを語る上で欠かせないのは勿論この人。
ただの変態おじさんなのに何故か一部の層からの圧倒的支持を受けている」でお馴染み(?)、我らがクロード・フロロー判事ですね。


彼は''正義の立場にある癖に、ヴィランズに分類される''というかなり珍しいタイプのヴィランです。ジプシーを殺してしまった罪滅ぼしのために、その子供のカジモドを渋々育てあげるのですが、「いつかこんな怪物でも役に立つ時が来るだろう」程度の腹積もりで育て始めたわりに、ネグレクトもせず、心の優しい青年を成長させている訳ですから、これだけは評価されるべきかなと思います。いやまぁその子供を監禁洗脳してはいるんですけど。



そうして立派に、計画通りカジモドを自分の忠実な下僕にしたフロローですが、唯一の誤算が「エスメラルダに恋をしてしまったこと」でした。そう、ヘルファイアです。

Hellfire ノートルダムの鐘 フロロー判事
Disney Wikiより引用(https://disney.fandom.com/wiki/Hellfire)



これも「ただのヤンデレ恋愛ソングの割に一部の層から狂信的な支持を受けている」でお馴染みですね。私は好きです。




彼は典型的な「正義中毒者」としての側面を持ち、自分を正義だと疑わずに生きてきました。自身の中では絶対的な’’悪''であるジプシー。奴らを根絶やしにするためには手段を選ばないという、非常に本末転倒な考え方に陥っています。



そしてエスメラルダに恋をしたことも「It’s not my fault!(私の過ちではない)」とジプシーの呪いのせいにして逃避しようとしますが、大聖堂には「Mea maxima culpa(自身の最大の過ちだ)」と責められ、自分のものにならないならエスメラルダを火炙りにすればいい!というトンデモ思考でパリを火の海にしてしまいます。しかもあろうことかカジモドまで殺しかけ、最後には大聖堂の怒りを買い転落死します。





彼の魅力は何と言っても「人間味」です。
「ジプシーを根絶やしにしたい」と信念を持つ一方で、カジモドの母を殺してしまったことに対しても罪の意識がある。カジモドを殺そうとしたときには、一瞬ためらう。そして恋までする。恋のために自分を見失う。…ヒロインといっても過言ではないですね(過言です)
原作ではどちらかというとフロローが主役のように描かれているので、その系譜を受け継いでいるのかな。ヴィランズの中でもかなり出番が多いキャラとなっています。






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フロロー判事は怪物なのか?



では彼はクロパンが歌う『The Bells Of Notre Dame』の中の歌詞(誰が怪物で誰が人間か?)のどちらに当てはまるのか。






まず、冒頭の本曲について。
曲中、ジプシーを追ったフロローはカジモドの顔を見た途端驚きを隠せない、といったふうに「怪物だ!」と叫びます。この時歌詞「Who is the monster / and who is the man?」の中での「怪物=カジモド」を指していて、そしてそれと対比するように「人間=フロロー」であることも簡単に察せます。ここまでは前編でも説明しましたね。



では最後のリプライズ版ではどうか。クロパンが「What makes a monster / and what makes a man?」と歌う時、前半部ではクロパンはフロローの人形を持ち、後半部では民衆に受け入れられ胴上げをされるカジモドが写ります。ここで私達は思う訳です。「あぁ、本当の怪物はフロローで、カジモドは怪物なんかじゃない、人間なんだ」と。







……しかし、本当にそうですか?








映像に描かれることと伝えたいメッセージが必ずしも一致する訳ではないと、前編のガーゴイルについて話した時に書きました。そしてさっき解説したとおり、クロード・フロローはヴィランズの中でも「人間味に溢れていて、だからこそ人気がある」 ヴィランなのです。自らの信念を高く掲げていた彼を安易に「怪物」だと定義してしまうことは、酷く、浅はかな行為なのではないか?










ここからは考察になりますが、フロローは恐らく「怪物ではない」のだと思います。
さらに、リプライズ版の歌詞「What makes a monster and what makes a man?」の「Monster/Man」は、誰か特定の人を指し示している訳ではないのだと考察されます。





改めて歌詞をよく見てみると、
冒頭は「Who is “the” monster and who is “the” man?」と、冠詞が「THE」になっていますね。小学校時代に習った知識を思い起こせば、「THE」は限定する名詞の前につくことば。つまり先述したように「The Monster=カジモド、The Man=フロロー」と明示しています。

しかしリプライズ版は「What makes “a” monster and what makes “a” man?」と冠詞が「a」になっています。「a」は対象を限定しません。「何が怪物を作り、何が人間を作るのか」という歌詞の中で特定の人物を指し示してはいません。


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『ノートルダムの鐘』が本当に伝えたかったこと




本作の主題であった『The bells of Notre Dame』の歌詞は、
「人間」と「怪物」の線引きがどんなに曖昧で、形の無いものなのかを説いているのではないでしょうか。




他の人とは見た目が違うから、カジモドは怪物だ。
フロローはヴィランで、パリの街の怪物だ。


そんな脆く短絡的な考え方の上では、「誰しも怪物になりうる」というメッセージだと思うのです。





ほんとうの「怪物」




ノートルダムの鐘



作中、民衆は初めて街に出たカジモドを一目見ては「化け物だ!」と怯えますが、クロパンが「王様を讃えよ!」といえば彼らは挙ってカジモドを胴上げし、彼にマントを着せて大団円で踊り出します。
しかし、兵隊のひとりがカジモドにトマトを投げ付けると途端にギャハハと笑いだし、一瞬で同じように卵や野菜なんかを投げ付けては彼を縛ります。

人によってはトラウマレベルのこのシーン。






カジモドはみんなに受け入れられた時、嬉しくて感極まって涙を流してしまう程に心の綺麗な人間です。しかし民衆はどうか。美人な姉ちゃんエスメラルダには終始同情して味方になる癖に、先述のシーンでカジモドに同情する人、彼を守ろうとする人はエスメラルダとフィーバスを除き一人も居やしませんでした
恐らく、最後の焼き討ちのシーンで処刑されるのがエスメラルダではなくカジモドであったとしたら、民衆から「放してやれよ!」「何をしたっていうのよ!」と擁護する声は上がらなかったでしょう。




ラストのシーンで、カジモドはエスメラルダに手を引かれ、恐る恐る陽の光を浴びます。すると小さな女の子がカジモドにゆっくり歩み寄り、彼を抱き締める。街はカジモドを讃えようとお祭り騒ぎに。「カジモドが民衆に受け入れられた」ということが非常にわかりやすく描かれた、印象的なシーンです。




しかしこのシーンをもう一度30秒戻ししてみてください。


女の子が人混みを掻き分けカジモドの方へ近付く時、前列中央に一人だけ、「この光景をみてムッとした顔をする男性」の姿がハッキリ描かれています。
繰り返すようですが、この作品は描かれていることと伝えたいメッセージが必ずしも一致する、そんじょそこらの映画とは違います。





カジモドは彼らに受け入れられたように見えてその実。
結局彼ら自身は「なにも変わっちゃいない」のです。




周りの空気に合わせ、彼にトマトを投げつける。
彼が胴上げされていればみんなで騒ぐ。






原作ファンの方々や、ディズニーを苦手とする方は挙って「結局ハッピーエンドかよ」と言いますが。
この作品は寧ろ「他の作品よりも救いのないバッドエンド」とも取れるんですよね。






ところでこのラストシーン、街ではカジモドを讃えるお祭り騒ぎで街中が沸き立ちますが、この街の''正義''であったフロロー判事の死を哀しむ声は誰からも上がりませんでした。






……この作品の、ほんとうの「怪物」とは一体誰だったのか?何をもってして「怪物」か。何が「悪」で何が「正義」なのか?



少々ヒントの出し過ぎな気もしますが、敢えてハッキリとした答えは出さないでおきます。
こういったことを踏まえてもう一度、この『ノートルダムの鐘』という作品に触れてみてほしいのです。





  • 何が怪物を作り、何が人間を作るのか



これは『ノートルダムの鐘』の原作者であるヴィクトル・ユゴーが次のように明らかにしています。





Adversity makes men, and prosperity makes monsters.

不運は人間を作り、幸運は怪物を作る。



これを解説する際には、劇団四季版の『Out There(陽ざしの中へ)』の歌詞がいちばんわかりやすいので、まだ聴いてない方は一度Youtubeとかで検索していただけると。

Cメロ、映画版だとカジモドが街を見下ろす部分の歌詞ですね。
(因みにこのシーンには『美女と野獣』のベルや『ライオン・キング』のプンバァ「であろうもの」などがカメオ出演しています)




ここから見える人たちはみな
わめいたり嘆いたり
平凡な暮らしの幸せ
まるで気付いていない
僕ならそんな毎日 大事にする 




Adversary(不運)な、逆境におかれた人たちでも、自分の境遇に嘆くばかりではなくそこに光を見付けられるかどうか。Prosperity(幸運)で裕福な人たちは、自分の生活に慢心し、大切にせず、そしていつの間にかモンスターになっていないか。ユゴーはそのようなことを言いたかったのではないでしょうか。




私たちに「何が怪物を作り、何が人間を作るのか?」と問い掛けたディズニーですが、その答えは既に原作者のユゴーによって明かされていて、彼の言葉をもってして、『ノートルダムの鐘』というひとつの作品が完結します。そしてこの作品のメッセージを、私達はどう受け取らないといけないのか。




ただのハッピーエンドじゃ終わらない。
いやぁ、やっぱり最高だね『ノートルダムの鐘』。




  • 最後に




ノートルダムの鐘 カジモド



この映画が何故こんなに評価されているのか。それはこの映画が「エンターテイメントだから」だと私は思っているんですよね。



かなり深いメッセージを持つこの映画。しかしながら、本作はこの暗いテーマを裏に隠しつつも決して「ディズニーとしてのエンターテイメント」としての姿勢を崩さないのです。あからさまに私たちに「考えろ」なんて言わない。登場キャラにそう言わせたりはしない。受動的に観ていれば、「ただのドキドキハラハラする物語」で終わってしまう。



要は「押し付けがましくない」んですよね。決してエンターテインメントとしての枠を越えずに、我々に考えさせるきっかけを与えてくれる。


それこそがこの映画の最大の魅力であり、そして「ディズニー'’じゃないと’' できなかった」ことでもあるのだと思います。









とか何とか言ってたら観たくなってきたじゃないか。
今日は部屋を暗くして、15世紀のパリに想いを馳せようか。


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ディズニーファンの父親の影響で0歳の頃からディズニーアニメ漬けの毎日を送っています。
一番好きなディズニープリンスはエリック。一番好きなサイドキックはムーシュ。
アランメンケンが自分の第2の父だと勘違いしながら生きてます。

東京のパークも好きで足繁く通います。共通所持。

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