【5月6日追記】劇団四季ミュージカル版「ノートルダムの鐘」の福岡公演が、新型コロナウイルスによる影響で千秋楽までの全日程中止と発表されました。
本公演では無いのですが、私も観劇予定だった公演がコロナウイルス関連で中止になってしまったので、今回観劇の予定があった方の悲しみが痛い程伝わります。どうか再演を……。
パンが無いならお菓子を食べればいいじゃないの精神を今こそ受け継ぐのです。さぁみんな、今すぐリモコンの再生ボタンを押すのよ!
______________________________________________________
さていきなりですが、皆さん映画を観る時は字幕派ですか?吹き替え派ですか?
筆者は字幕派ですね。やっぱり日本語だと言葉足らずになっちゃうところがあるので。
英語版と吹き替え版は、セリフの内容に相違があったりします。ディズニーだと特に顕著なのが歌詞で(レリゴーとありのままで等)、多角的にディズニー作品を鑑賞する際、両言語で観るというのは中々に面白いです。ということで最近『ノートルダムの鐘』を初めて吹き替え版で観てみました。そして感想。
吹き替えのカジモドめちゃくちゃ歌上手くね!?!?!?
ヤバい。英語版は少し線が細い感じの歌い方で、切なる『僕の願い…...…!』というイメージの音楽が展開されてたんですけど、吹き替え版は圧倒的な声量でこちらを殴ってくる。正に’’歌劇’’。『僕の願いダァァァァァ!!』って感じ。もうスケールが違う。
『Out There(僕の願い)』が終わった瞬間震える指で速攻声優さんを調べました。声を当てているのは俳優の石丸幹二さんで、元劇団四季団員と書いてあり成程納得。やっぱ四季出身は格が違うな……。とドン引き(いい意味で)しました。
というか声がめちゃくちゃ爽やかで格好良かった大好き。今日から俺は幹二のファンだぜ…。
そしてトップシーターヴィ、ゴッドヘルプ、罪の炎もメチャクチャ良かった。クロパンのおちゃらけた感じと、エスメラルダの方の透き通るような歌声。フロローのオペラに近いような低く、重厚感のある歌声に、改めていい作品だなぁと震えました。
.
主に石丸幹二さんへの愛で前置きが長くなりました。
ということで今回は「ディズニー最高傑作」と言われる一方で、かなり「ディズニー色の薄い」この映画、『ノートルダムの鐘』についてつらつらと語っていきたいと思います。
ということで今回は「ディズニー最高傑作」と言われる一方で、かなり「ディズニー色の薄い」この映画、『ノートルダムの鐘』についてつらつらと語っていきたいと思います。
- 基本情報
ノートルダムの鐘が本国で公開されたのは1996年で、その時期といえば丁度ディズニー・アニメーション・スタジオの「ルネサンス(復活)期」にあたります。『美女と野獣(1991)』、『アラジン(1992)』、『ライオン・キング(1994)』と連続してヒット作を輩出していたスタジオが満を持して送り出したこの作品ですが、興行収入としてはあまり奮わず……。また、前述した1990年代前半のヒットを牽引した、当時のディズニーアニメーションスタジオ最高責任者ジェフリー・カッツェンバーグが最後に手掛けた作品でもあり、一般的に『ターザン(1999)』をもって終わりとするディズニー・ルネサンス期ですが『ノートルダムの鐘』をもって終わりとするという意見もあります。正直この辺は定義が曖昧なのでなんとも言えません。
興収こそ奮わなかった本作ですが、当時のディズニーにしては珍しく「差別」と真っ向から向き合ったテーマ、繊細かつ芸術的なタッチの画、大胆なカメラワーク、荘厳で盛大な音楽など、評価されるべき点はかなり多いです。ただのファンタジーとして観るのは勿体ないくらいの作品なので、未視聴の方は是非リモコンの再生ボタンを押してみてください。
(ここからは本編のネタバレを含みますので、先に視聴しておくことをお勧めします)
と言ってもこの記事に辿り着いた方は既に、本作のストーリーのテンポの良さや音楽の魅力……なんかを知り尽くしていると思うので、今回はテーマを「作品の主題」、「3人組のガーゴイル」、「本当の''悪''とは?」 という3つに絞ってみました。正直「キャラクターの魅力」とか、アランメンケン本人も気に入ってると豪語する「音楽」についてとか、書きたいことはまだまだいっぱいあるけど。というかいつか絶対書くけど。
- 作品の主題
____シーン冒頭。天に聳えるノートルダム大聖堂と厳かなメインテーマが流れる。カメラはそのまま大聖堂に近付いていく…と思いきや、雲の下、パリの街を映し出す。そして街の道化師クロパンが大聖堂の醜い鐘つき男について語り出し、『The Bells Of Notre Dame』の物語が始まる。
.
さてこの冒頭のシーン、『ピノキオ』と少し似たような手法(マルチプレーン構造)なんかを駆使していていきなり15世紀のパリの世界に引きずり込まれる感じがあるんですよね。筆者はとても好きです。
このシーンで流れる『The Bells Of Notre Dame』という曲の終盤、道化師クロパンは次のように歌います。
作中ではクロパンが客の女の子に対して語りかける、という体をとっていますが、いつの間にか彼はこちら側、「この映画を観ている私達」と目を合わせ、そしてこう問い掛けるのです。
さて、ここで謎掛けだ
Now here is a riddle
良ければ当ててみてくれよ
To guess if you can
ノートルダムの鐘が鳴る
Sing the bells of Notre Dame
誰が怪物で
Who is the monster
誰が人間か?
and Who is the man?
作中ではクロパンが客の女の子に対して語りかける、という体をとっていますが、いつの間にか彼はこちら側、「この映画を観ている私達」と目を合わせ、そしてこう問い掛けるのです。
誰が怪物で、誰が人間か。と。
ただこれはあくまで前説の段階であり、この時点で私達が与えられた情報は「カジモドは化け物のような見た目をしている、あとフロローは怖い人」ということくらい。だからこの映画を初めて観た人は勿論ここでは「カジモド=怪物、フロロー=人間」と認識する訳です。
しかしストーリーが展開されて、ストーリーの最後で流れるリプライズ版の『The Bells Of Notre Dame』では歌詞が次のようになります。
さて、お分かりだろうか
So here is a riddle
謎掛けの答えを
to guess if you can
ノートルダムの鐘が鳴る
Sing the bells of Notre Dame
何が怪物を作り
何が怪物を作り
What makes a monster
何が人間を作るのか?
and what makes a man?
見た目が醜ければ怪物か?間違った正義を振り翳すのが人間か?
私達はただ単に、自分とは違う人間を「怪物」と定義しているだけではないのだろうか、と。
深いね。(浅い感想)
では、この映画の中でのほんとうの「怪物」は一体誰なのか?
そして、この問い(何が怪物を作り、何が人間を作るのか)に答えはあるのか?
それはこの記事の後編にて少し考察してみようと思います。
- ガーゴイル三人衆の本当の存在意義
ところで最近公開当時の映画パンフレットを読み返したんですけど、作中のガーゴイルについても記述がありました。「一番苦労したのはどの部分か?」という質問に監督が「ガーゴイルじゃない?」と返し、それについて色々解説していました。
それを読んで、ハッとさせられたことがあるので少し。
このガーゴイル達は毒親フロローに育てられるカジモドの唯一の「友達」であり、カジモドの外に出たいという望みを後押しし、エスメラルダについても「あの子は絶対お前のことが好きだぜ!(A Guy like you)」と応援します。
ディズニー作品ではこのような存在が登場することは珍しくありません。「シンデレラ」ではネズミや鳥たち、「アラジン」では猿のアブー、「アナと雪の女王」では雪だるまのオラフといったふうに、メインキャラクターにはサイドキック(相棒)がつきものです。彼らは冒険についていき、時に主人公と喧嘩し、そしていざという時に活躍してくれたりするのです。
だから、本作の序盤でいきなり石像が喋りだしても「あぁ、この石像がカジモドの友達なのか」と観る側はすんなり受け入れてしまうんですね。
彼らは冒頭、外に出てみたいと呟くカジモドに「行っちゃえ行っちゃえ!」みたいな、非常に軽ーいノリで励ましてくれます。今までの「ファンタジー要素が強いディズニー映画」とは一線を画したこの映画を「ディズニーたらしめる」のがこの3人組の存在であるとも言えます。
そんなカジモドに常に寄り添ってくれる彼らですが、しかし。
日本公開の際の映画パンフレットでは「カジモドの前でのみ生命を得て自由に動き回るが、他の誰にも見えない。」とハッキリ記述がありました。
つまり、彼らは他のキャラクターの前では一切''動かない''のです。
一度フロローがカジモドに会いに来れば、そこにあるのはただの石像。
「何と話していた?」「その像は何で出来ている?」「ただの石は話すか?」とフロロー判事が問い詰めても、カジモドはいいえとしか答えません。当然です、舞台は15世紀のパリで、魔法の世界なんかじゃないのだから。あまつさえ''魔女狩り''が行われていた時代に、石像が喋り出す魔法なんて存在しないのだと。
何が言いたいかというと、つまりこの石像は「カジモドが作りあげたイマジナリーフレンド」ということです。本当は、喋ったり歌ったり、燃え盛るパリの街でウィンナーを炙ったりはしていないんです。
「え?当たり前じゃん」と思う人もいるでしょうが、これは恐らくディズニー映画を観てる人''ほど''気付きづらいんですよね。
(裏付けとして、原典のユゴーによる『ノートルダム・ド・パリ』でもカジモドは大聖堂と心を通わせていた……という様な記述が多々あります。)
そしてパンフレット内でカーク・ワイズ監督は「ガーゴイルはカジモドの内面の言葉にできない部分を代弁しているキャラクターだ」と発言していました。
ということは、「外の世界に一歩踏み出しちゃえよ!」という声も「エスメラルダはお前みたいな男がタイプなんだぜ」という応援も全て「カジモドの心の声」ということです。
顔は醜いが純粋で優しい心を持つ…と言われる彼も、聖人君主ではありません。
彼の心の中では「フロローの言うことなんか無視しちゃえ」と言ってのける自分や「エスメラルダを自分のものにしたい」という欲望がちゃんと存在しているのです。この人間臭さって言うのかな、ディズニーはしっかりそういうのを描くんですよね。そこが好きなんだ…………(BIG LOVE)。
そしてさらに、アニメイター達はそれを''わかりづらく''描いている。さっき「カジモドの前でしか動かない」と断言した直後で申し訳ないのですが、作中で3人組のうちの1人、ヒューゴがヤギにキスする(ヤギには動いているところが見えている)シーンがあります。そして3人組全員が終盤のシーンで攻め込んでくる兵たちを上から迎え撃つシーンなんかもあります。こういう描写があるから、ただのおちゃらけ要員と勘違いされる。ぶっちゃけ、''わかりづらい''んです。
わかりづらいからこそ、映画レビューで「ガーゴイル要らない」とか書かれる。
だけど、伝えたいメッセージが、必ずしも映像と一致するわけではない。
この辺が巧みなんですよね〜。何でもないようなシーンにもちゃんと意味が込められている。これもドン引きです(いい意味で)。
そしてこの3人組が歌う「A Guy Like You」という曲もなかなかに良いです。パリの街はジプシーを根絶やしにしようと暴走するフロローにより火の海状態なのに彼らは呑気に「パリ 恋人たちの街は今日も燃え盛る」「恋の炎が燃えてる」「君はいい男だ」と歌い出すんですよね。サンクチュアリ(聖域)らしいというか平和ボケというか、クスッと笑えて良いですよね。
- 閑話休憩
ここで文字数が5000に到達したため、記事を前後編に分けることにしました。
さて、休憩がてらここからはヴィクトル・ユゴー版の原作、「ノートルダム・ド・パリ」について少しだけお話しようと思います。息を吐くようにネタバレするので注意。
.
まず前提として全員死にます。
早速クライマックスの話をしてごめん。ただ何回も言うけど、人物紹介のところで全員の死に方を紹介されるネタバレをくらったことはまじで一生忘れない。
【全員の死因まとめ!】
カジモド→飢えて死ぬ
フロロー→カジモドに突き落とされて死ぬ
エスメラルダ→フロローに処刑されて死ぬ
見事に救いが無さすぎる。
ちなみにフィーバスはフロローに刺されますが、 実は生きていました。良かった!
だけどフィーバスには最初からずっと婚約者がいたからエスメラルダのことなんか忘れて幸せに暮らしたよ。
…………………………。
まぁディズニーの原作ってたいていヤバめのストーリーだったりするのでそこはご愛嬌というか。もう仕方ない。
ただ終盤のシーンでのこの描写がもう鳥肌でした。
数年後、処刑場を掘り起こすと、白い服装をしていた女性エスメラルダと思われる白骨に、異様な骨格の男の白骨が寄り添っており、それらを引き離そうとすると、砕けて粉になってしまった。
こわ…………。
ディズニー版と違い最早ホラーの域のそれですが、訳されたのがどうやら最近なのか、かなり読みやすくなっていたと思います。
みなさんも興味があれば是非一読を。
あと、筆者は残念ながら観たことがないのですが、ブロードウェイ版でもアニメ版のようなハッピーエンドとは一味違った感じに、というかどちらかというか原作寄りらしいですね。日本公演は冒頭述べたように中止の運びとなってしまいましたが、いつか再演されたら観に行ってみたいなと思います。
後編はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿