「特別じゃない」という名のギフト。『ミラベルと魔法だらけの家』

2021/11/27

WDAS ミラベルと魔法だらけの家

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邦題にだんだん愛着湧いてきました。どうも、ジェムです。 


ネタバレ全開で初見時の感想を走り書きしただけです。色々雑な部分もあると思いますが悪しからず。


(本記事は本編のネタバレを含みますので、先に視聴しておくことをお勧めします)



基本情報


『ボルト(2008)』『塔の上のラプンツェル(2010)』『ズートピア(2015)』の監督、もうWDASでも立派な古参アニメイターになりました、バイロン・ハワードと『ズートピア』『モアナと伝説の海(2016)』で脚本を担当したジャレッド・ブッシュが監督としてタッグを組み、加えて『モアナと伝説の海』『メリーポピンズ・リターンズ(2018)』、来たるリトルマーメイド実写でも制作に関わることが発表されているディズニー常連のリン=マニュエル・ミランダが音楽を担当。

『ラテン・アメリカの旅(1942)』『三人の騎士(1944)』『ラマになった王様(2000)』に続き、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ4作目のラテンアメリカ文化がテーマとなった長編作品。


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 小説作品やおとぎ話を映像化することが多い同社だが、今回の『ミラベルと魔法だらけの家』はその限りでなく原作というものは存在しない。が、ここでまず『100 Years of Solitude(百年の孤独)』という小説に言及しておきたい。




映画の舞台ともなったコロンビア出身の作家ガブリエル=ガルシア・マルケスによって書かれたファンタジー小説であり、ラテン文学の繁栄にも大きな寄与をした一冊。マコンドという外界とは隔離された街に暮らすブエンディア一家の繁栄から滅亡までを描いた物語だ。

小説というよりは映画と同じように様々なキャラに焦点を当てた100年に渡るオムニバス小説、と言った方がより正確だろう。ブエンディア家にはマドリガル家と同様に、予知能力を持つ不思議な子供や「黄色い蝶」に好かれるキャラなどが登場する。

家の決まりとして近親相姦を禁じていた一家であったが、最後に生き残った叔母と甥が恋に落ち家の決まりを破るまでが作品の大筋で、これがブルーノの言及していた「叔母と甥の恋の話」のルーツであり、この作品のコンセプトに影響を与えた作品だということがわかる。

のちにマジック=リアリズムの代表作となったこの小説へのリスペクトだろうか、本作でも魔法要素を含みながら非常に現実的な、ミクロな規模感のストーリーが展開されていたなというのが初見での印象。しかしやはりそこはディズニーといったところか、各キャラの部屋で起こる大冒険やミュージカルシーンでの非現実的な演出で壮大なスケールを感じさせた。

さて、本作は「ギフト」に焦点が当てられた。才能や個性がある(Gifted)ということは確かに凄いこと。だが、特別は時に枷になる。同監督作品のズートピアでも「被差別者の中に差別意識は存在しないのか?」という角度が鍵になったが、この「同じ物事でも見方が180度違うと全く違うものになる」といったふうな視点の転換はジャレッドブッシュならではか。


・特別であるということ


本作で筆者が特に期待していたのは主人公のミラベル…ではなく、その姉、ルイーザとイザベラの描写である。


この2人はポスターでも対局に配置されており、ヴィジュアル面でもいわゆる「強い女性」と「美しい女性」として相容れない場所にいるように見える。しかし映画内で2人とも外圧に苦しめられ、自分でも望んでいない像を半ば押し付けられている(もしくは自分自身がそう押し付けている)という共通点を持っていたことが判明する。敢えてステレオタイプ的なキャラクターデザインであることで、観客自身も「パワータイプのキャラか」「プリンセスキャラか」という印象を大いに受けたことだろう。しかし、そのような思い込みや決めつけが少しづつ2人をプレッシャーの渦に陥れたのだ。この2人のキャラクターは正に脱ステレオタイプ的でありながら、誰しも一度は感じたことのあるような普遍性を持った苦悩に仕上がっていたのではないかと思う。最後に重たそうに植木鉢を持ち上げるルイーザのシーンが好きだ。


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また、イザベラの「本当は結婚したくないが家族のために結婚する」という展開は、そのまま『眠れる森の美女(1959)』のオーロラのプロットだろう。外圧によって結婚を強制させられるという苦悩が本作では一曲まるまるのリソースを割いて歌われる。彼女の「新しい世界を見たい」という野心も、サウンドトラックの中で一番ワクワク感が刺激されたと思う。

オーロラは結局自分が恋をした人が王子(婚約者)だった訳だが、そこを本作では「結婚を選択しないイザベラ」と「恋を叶えるドローレス」として2人に分け描写している。つまり「恋愛をするキャラ(クラシックプリンセスの文脈)」と「しないキャラ(近代プリンセスの文脈)」、どちらも両立させたということだ。こういうかつての作品を否定することもなく、誰も傷つけずに言葉通り「過去作品のアップデート」をする姿勢が、制作陣の過去作品に対する愛を感じてこちらも嬉しくなる。流石クラシック作品のオタク、バイロンハワード。そういえば眠れる森の美女が好きだったとか言ってたもんね



・ミラベルの「ギフト」



ミラベルのギフトって明らかに「人の本心がわかる」では?????


ジェイドリーチのショックザハート改良版か?


アントニオは多分ミラベルだけに不安な心のうちを明かしているし、姉2人ともミラベルに話しかけられたらすぐに心の内を吐露してくれるし、おばあちゃんも結局素直に話してくれるやん。他にもちょくちょく「ミラベルの周りの人間めっちゃ素直やな〜」と思った部分あるが、これってやっぱりミラベルのギフトなんじゃないですかね?いや知らんけど。まぁおじい様によってわざとギフトが与えられなかったと解釈する方が正しい気がしているが。

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ミラベルがギフトを持たないという体で真面目にいろいろ振り返ってみると、アブエラをはじめ家族みんなが「ギフト」という色眼̀鏡̀を通してしか家族の皆を見れなくなっていったのと対照的に、ミラベルは皆の「本質」のようなものに触れようとしたんじゃないかなと思う。みんな特別なギフトがあるから、どうしてもそれに頼って会話や理解というものが足りなかった。他人のユニークさを「わかった気」でいて、ギフトを彼らの個性だと勘違いしていた。お互いにその程度の相互理解しかないからこそ、前述したようにイザベラやルイーザは「自分にはこれしかないのだ」という勘違いに余計にズブズブと陥ってしまう。

ミラベルはギフトが無かったからこそ、彼らと一体一で向き合い話し合い、家族達の本心(=ギフト以外の部分)を引き出すことができたのではないだろうか。

“Waiting the Miracle”という曲の中盤、英語版ではミラベルはopen your eyes(目を開けて)と歌うが、ポルトガル語版だとNa mnie tu patrz(私を見て)と歌っているらしい[注: 中の人はポルトガル語は全く分からないが全くわからん言語の劇中歌も聴き比べるタイプの変態オタクである] 。つまり、ミラベルはおそらくしっかり人間の本質を見る人間なのだ。ギフトではないその人そのもの自分そのものを見てもらいたいがためにあそこまで奮闘したのだろう。

私は本作の主人公がメガネをかけているのは「メガネのプリンセスを出して欲しい」とファンによって請願が行われたことによるものだと思っていたが(詳細はこの記事など)、イザベラやルイーザの「脱・ステレオタイプ」な描写を鑑みると、ミラベルがメガネをかけているのには意味があったのではないだろうか。視力は悪いが、人間の本質は見逃さない。家族の中で唯一メガネをかけているのはつまり、ミラベルだけが「視えている」という意味なのでは。


映画の序盤、ロバを運ぶおじさんが“ I gave you the special since you’re the only Madrigal kid with no gift. I call it the ‘not special’ special. Since, uh, you have no gift.(君は特別だよ、だって君はマドリガル家の中で唯一ギフトがないんだから、つまり「特別じゃない」っていう特別だろ?)”と言っている。
序盤でメインキャラでもないセリフなので聞き流してしまいがちだが、これこそが映画の終着地である。「特別じゃない」ことそのものがミラベルの「特別」だったのだ。わかりづらいけども大切な伏線の要素となっている。



【ここからは体力が尽きたので箇条書きで話していく】


本作のキーパーソンであるアブエラおばあちゃん。彼女は”Welcome to the familt Madorigal”のソロパートで「work and dedication will keep the miracle burning(みなのために働き、献身することが魔法のキャンドルを燃やし続ける)」みたいなことを歌っていたが、恐らく魔法のキャンドルの力は家族の心か何かと連動してるので(いや知らんが)それは勘違いである。そしてアブエラはその勘違いのために、家族の皆にギフトを半ば強要し、ギフトを持たぬミラベルに辛く当たる。まぁアブエラが勘違いしてしまうのもストーリー終盤の「ペテロの自己犠牲によって魔法が与えられた」みたいな回想を踏まえれば、その自己犠牲をを伝統として続けよう……と考えてしまい無意識に家族にプレッシャーを与えてしまう気持ちもわかる。この辺の描写はやっぱりどうしてもピクサー作品であるリメンバーミーのエレナおばあちゃんを連想させた。悲しいバックグラウンドゆえに次世代とは認識が違う...みたいなのも割とリアル。あと大家族のおばあちゃんズのリーダーシップすごすぎんか


・ポスターでもでかでかと描かれている家(カシータ)だが、あの家がみんなの部屋ごとに色や形が違う、というのも観る前と観た後では違う印象を抱いた
要はあれは「ハリボテの家」なのだろう。皆が少しずつ違和感を持ちながらも、全部違う形の積み木をなんとなくバランスよく継ぎ接ぎしてできたバラバラの家。最後に皆で再建した家はそうではなく、色が統一されている。これは「家族がひとつになった」という意味を持つと解釈した。

・家を魔法で建て直すのではなく、「建て直したことで魔法が復活する」のが印象に残った。ミラベルが最終的に自分のドアを見つけられたのはシンプルにミラベルがドアの位置を間違えていたせいでギフトが与えられませんでした、自分の正しい居場所は自分で見つけましょう、という『みにくいアヒルの子』的な解釈も可能かなと思う。とはいえギフトについてはおじいちゃんがアブエラに大切なことを思い出してもらうためにわざとミラベルにギフトを与えなかったんですよという読みが私は一番好きだが

・いとこやきょうだいがいる人は必見では。私はきょうだい仲があまり良くないタイプの人間かついとこがめちゃくちゃ沢山いるのでめちゃくちゃ共感出来た。秘密がいとこ間ですぐに回るというのも親きょうだいが仲がいいと普通にあるあるネタな気がする。しっかし、アナ雪での「信頼し合う仲良し姉妹」の大ヒットを受けて何故かそれとは真逆の仲悪姉妹が出てくる逆張りぶりには驚きである。




・以下は今気になっていることのメモの走り書きである。

・ブルーノがペパに「ごめん、あれは雨だと予言したんじゃなくて君がたくさん汗をかいていたから雨みたいだねって……」みたいなとこかわいい
?あのいきなり斬りかかってくる人達はなんのメタファー?
?迫害の背景、バナナ虐殺との関連
?コロンビア、スペイン系、彼らのルーツについて

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ディズニーファンの父親の影響で0歳の頃からディズニーアニメ漬けの毎日を送っています。
一番好きなディズニープリンスはエリック。一番好きなサイドキックはムーシュ。
アランメンケンが自分の第2の父だと勘違いしながら生きてます。

東京のパークも好きで足繁く通います。共通所持。

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