Disenchanted、無理だった【感想】

2022/11/19

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タイトルの時点でもうお察しだと思いますが、『魔法にかけられて2』、無理でした。

2が好きな方には不快感を与える恐れがあるので、2が好きで、また観たいという方は今すぐ戻った方がいいという忠告はしておきます。

試聴直後は「まぁディズニーの続編なんてこんなんだよな」くらいの感想だったんですが、ケヴィンリマ監督が自分のチャンネルに載せているオーディオコメンタリーを聴いて、監督が無印でこだわった要素が2でいかにundone(消去)されているかに気付いて、だいぶnot for meになりました。

自分、嫌いな作品でも何度も鑑賞するタイプの人間なんですが、もしかしたら『魔法にかけられて2』だけは2度と見ないかもしれない。(とか言って、1ヶ月後にはしれっと見返して好きになってるかもしれないんだけど。)





『Enchanted』



そもそも『魔法にかけられて』とはどういう作品なのか。



97年に最初の脚本が練られてから、2007年の公開まで実に10年の月日を要した本作。
実は元々本作は完成版よりも暗いタッチの作品で、大人向けの作品を提供するブランド、タッチストーン・ピクチャーズが配給する予定でした。その後脚本は何人もの手によって何度も書き直され、そして3度の監督の交代があったのちに、2005年に『グーフィー・ムービー』や『ターザン』を手掛けたアニメイター出身ケヴィン・リマが監督に就任したことで、現在の形になっていった作品です。


リマ監督が就任した時の脚本は、完成版よりもプリンセスに対して「シニカル(冷笑的)」な作品だったと監督は語り、監督が作品を「ディズニーアニメーションへのラブレター」にすることを提案したことで、停滞していたプロジェクトはやっと前進していきます。

この「not cynical, love letter」というコンセプトはコメンタリー内で監督が何度も強調している部分であり、演者やクリエイターたちに対しても「don’t make fun of them」、つまり、クラシックプリンセスを笑い物にするようなオマージュではなく、「誠実(sincerely)」な姿勢でラブレターを作ることを繰り返し伝え徹底したそうです。







『魔法にかけられて』は、そのような製作陣のディズニーアニメーションへの愛あってこそ生まれた作品です。

作品内でもそれは明確に示されており、数えきれないほどのオマージュやゲスト出演など(キリがないためここでは割愛)が存在します。


さらに、そのような要素的な部分だけでなくストーリーそのものも、旧来型のプリンセスをオマージュしつつも現代的なロムコムに仕上げられており、美術面でも、アニメーション世界と現実世界の完璧な融合によって、アニメーションのキャラがそのまま現実世界に出てきたという現実では起こり得ないであろう物語に説得力が与えられています。




『魔法にかけられて』



さて、ここからはなぜ筆者が『魔法にかけられて』が好きなのか?という話をしよう。

本作の良さはなんといっても「おとぎ話やアニメーションの世界は物語の中だけで、現実では通用しない」というシニカルな見方に対してNoを突きつけ、現実とおとぎ話を共存させたことにあるだろう。




愛に必要なのは理性であり、お互いに合理的なパートナーであることだとおとぎ話を跳ね除けていた現実主義者のロバートが、「本物のプリンセス(になる予定)」のジゼルと出会って、現実世界で弁護士として生きていたら思いもよらないような生き方や考え方、物の見方を知り、人生を楽しむヒントを貰って……という「ボーイミーツガール」ならぬ「フェアリーテイルミーツリアル」が1の新しい部分であり、現代に生きる我々はその奇妙な邂逅をロバートの視点で観る。ここに『魔法にかけられて』の面白さがある。


リアルでは汚いと忌避される動物が掃除の手助けをしてくれるとか、別居状態の夫婦が心に残っていた愛に気付くとか、ジゼルがいきなり歌い出すラブソングにセントラルパークの人達が乗ってきて大合唱になるとか。

視聴者に「あれ、おとぎ話な生き方って意外と現代に通用するじゃん!」という思いを抱かせるようなシーンが多くあり、そこには我々が魔法のない世界を生きるうえで忘れかけたSilly Love Songの素晴らしさの再発見がある。


監督のコメントも似たような感じだったので載せておこう。
「(ジゼルのような)楽観主義者と現実主義はふつう対立する概念です。私がこの作品の中で心から愛している部分は、現実世界で人を愛するために楽観主義を諦める必要はないという点です。ジゼルはロバートに「おとぎ話なんて馬鹿らしい」と言われ(自らの信念を)試されますが、彼女はロバートのような冷めた目線で世界を見ることを拒否します。」


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今でこそクラシックプリンセスのセルフパロディは「ディズニーあるある」みたいになっているが、『魔法にかけられて』が公開されたあの時、ディズニーのそれは確かに新しくて、それでいて旧式なプリンセスが「現代的な物の見方」によって嘲笑されるような昨今の風潮に一石を投じるような作品だったのだ。



『Disenchanted』

(注!ここからは『魔法にかけられて』及び『魔法にかけられて2』のネタバレを含みますので、未視聴の方は視聴後に読むことをおすすめします。)


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というわけで、2の本筋となる「おとぎ話式、全然現代で通用しねぇじゃん!」というのは別に求めていないのだ。


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「アンダレーシアと違って都会の人間はプリンセスを信じていないし、知らない人間には冷たくて、何もかもがおとぎ話のような人生など有り得ない」というのはもうジゼルがタイムズスクエアに上陸したシーンでやっている。

現実は物語のようにうまくいかないし、「夢と魔法の王国」はただの金稼ぎのアミューズメントパークと言われればそれまで、そんなことはとっくのとうに知っている。それでもジゼルの楽観主義が、夢のない日常に少しの光を与えてくれたのだ。



結局金かよ!夢がねぇな!夢と魔法の王国じゃなくてお金と資本主義の王国じゃん!」みたいな主張と言ってること変わらないじゃないか、と感じる人もいるだろうが、やはり『魔法にかけられて』は全体を通して明るいトーンの、希望の話であってほしかったというのが所感である。



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もちろん、観客のそのような反応を想定しているからこそ2の制作陣も『Disenchanted(魔法が解けて)』という真逆のタイトルを選んだのだろう。自分も本作が単に前述したような「おとぎ話は反抗期の子供相手には通用しない」というストーリーであるというだけなら、「求めてない」とは思えどブログでわざわざお気持ちを表明するには至らない。そもそもディズニーの続編は基本「そんなん求めてない」ストーリーばっかりだからである。




衝撃すぎるジゼルのキャラ変



では2のどこがnot for meなのかと言うと、「ジゼルのキャラが1と全く違う」という所である。
エイミーアダムズの演技は相変わらず素晴らしかった。ダメなのは脚本、脚本、脚本だ。





Enchantedのジゼル



1のジゼルは確かに最初こそ楽観主義、急に歌い出す、初対面の王子との結婚を決めるという三拍子揃った「おとぎ話の世界の住人」であった。

しかしニューヨークでロバートと過ごし、段々と彼に惹かれていくにつれて、彼女は「現実世界の住民」へと性格ごと生まれ変わっていくのである。



それを見事に表したのが「手」「洋服」「音楽」だ。



まず「手」。タイムズスクエアに来たばかりのジゼルは、手の動きが大袈裟で、小指が立っていて、所作もどこか浮世離れしたわざとらしさがある。監督の言葉を借りるならば、「シアトリカル (theatrical:芝居じみた、舞台用の演技)」。

しかし、映画が後半になるにつれ、彼女の動きは現代人のようになっていく。



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その違いがわかりやすく示されているのが、序盤の「老人にティアラを盗まれるシーン」と「ロバートと口論になるシーン」だ。
まだロバートと出会っていないジゼルは、老人にティアラを盗まれたとき「あなたってすごく悪い人なのね!」と観客にわかりやすく伝えるように叫んで、口をプクッと膨らませた、正に「シアトリカル」な動きをする。しかしロバートと口論するシーンでは、彼女の手の動きはさながら別れる直前のカップルの喧嘩のような、「現代人の激しい口論」にマッチした手の動きになっている。



洋服


次に「洋服」。
最初にアリエルのようなパフスリーブのウェディングドレスでタイムズスクエアに降り立ったジゼルだが、その後は次第にドレスからカーテンで作ったワンピースドレス、そして花柄のワンピースへと衣装が変わっていく。舞踏会のシーンは、ナンシーやロバート達が髪にパーマをかけフランス貴族をイメージした豪勢な衣装で参加するのに対し、ジゼルだけは非常にシンプルなマーメイドラインのドレスを着、髪はほとんどストレートになっている。

エンディングの「Ever ever after」で物語のその後が示されるが、そこでは髪はひとつにまとめられ、キャミソールワンピ一枚というカジュアルな装いだ(ちなみに、元々は暗いVネックシャツにジーパンというもっとラフな服装で撮影されていたが、ビジュアル面でのインパクトのために黄色になったようだ)。




音楽



そして「音楽」。
「I’m Wishing」と「Someday My Prince Will Come」を足して2で割ったようなオープニングの「True Love’s Kiss」は、曲調もかつてのオペラッタ風なディズニーソングであり、綺麗なソプラノとテノールのデュエットだ。NYにいくと曲調はよりモダンなブロードウェイ調になり、「So Close」「Happily Ever After」と現代的なポップスに曲調が変化していく。


決定的なのが、「エドワードと再会するシーン」だ。
エドワードはジゼルと再会できた喜びに出会った時のように歌を歌う。現代の人間は練習もせずにいきなり綺麗なデュエットには参加できないが、「おとぎ話の住人」にはそれが可能だ。ジゼルは「Happy Working Song」や「That’s How You Know」で現実世界でもそれを実行し、戸惑っているロバートを横目に現実世界の人間や動物までもを一緒に歌う仲間にしてしまう。

しかし、後半でエドワードにそれを求められると、ジゼルはそれに応えない。「応えられない」のだ。




「カートゥーンだったら何の迷いなくデュエットを始めるのが常識だ。でも彼女はできない。彼女は歌えないんだ。それどころか、いきなりデュエットを歌い出すエドワードのことを奇妙だとすら感じている。まだ彼女には、それが何故かはわからないけれど。」


監督は間髪入れずこのように続ける。

「そういった描写の全部が計画されたものなんだ。そしてエイミーアダムスがそれらにフィジカル的な表現をもたらした。彼女はもう白雪姫のように小指を立てないし、バレリーナのように踊らない。」




そしてダメ押しで動画に注釈までつけている






「何故なら、彼女はここで永遠に変わってしまったからだ。ジゼルは映画の中で2度と歌うことはない。」





Disenchantedのジゼル



もう2をわざわざ確認するまでもないと思うが、2のジゼルは初っ端のシーンでいきなり小指をたて、モーガン曰く「学校で注目を集める」お花畑のような服を着て動物たちを歌で呼び寄せるスリーアウトである。



何故?????????????





あえて言葉を選ばずにいうと、これは紛うことなき「退化」であり、「キャラ変」だ。本当に1を観て作ってるのか?とツッコまざるを得ない。(一応補足しておくが、2の主要製作陣はプロデューサー以外前作と総取っ替えである。)



Disenchanted(魔法が解けて)と言うが、1の時点でジゼルはもう「おとぎ話の魔法」から解かれていたはずなのだ。



モーガンとの対立の中で疲弊し、一種の防衛本能のようなものが働いて事ある毎にアンダレーシアアンダレーシアと繰り返すようになってしまった可能性もなくはないが、しかしそれにしても彼女の楽観主義的な部分がほとんど消え去り、悲観主義に陥ってるのはどういうことなのか。



一番わかりやすい矛盾は1のラストシーンとの間にあるだろう。


1のラストシーン、ナリッサ女王を倒したのちに2人が屋根から滑り落ちた後、彼女はロバートに「高いとこから落ちるのが好きなの?」と訪ねる。

これは何を隠そう、かつてロバートがジゼルの話を聞いて放った言葉とそっくり同じという皮肉である。



彼女は現代人へと変わり、そして皮肉を身につけた。


しかし2で彼女は何もかも忘れてしまったかのように、「皮肉」についてまるで知らないような言動を取るのだ。


それどころか、「怒る」という感情の獲得にあれだけ喜んでいた適応力の高い彼女が、10年余りをニューヨークで過ごしても「皮肉」を理解できず不快感を示している。




あんなに駄作だと言われたポカホンタス2でさえも、ポカホンタスの「常に変化を求める好奇心旺盛な性格」というキャラクターの根底は1と変えなかったし、あんなに炎上したシュガーラッシュオンラインも、ヴァネロペの自己中心的な性格は1と変えなかった。




このような細かなキャラ変がジゼルに限らず存在するのだ。




せめてキャラ変させるなら作品内で相応の根拠を示して欲しいが、何故かその「NYはダメだった!田舎に行こう!」部分がピップのダイジェストで終わるのがとにかく意味不明である。





ディズニー続編あるあるの「1とは真逆のことをやる(娘が海に行きたがるとか、息子が飼い犬暮らしからアウトローになりたがるとか…)」というプロットこそあれど、主人公の性格がここまで真逆になっちまった例は流石にパッと思い付かない。




監督周りのゴタゴタ事情



メタ的な読みだが、実は2監督のアダム・シャンクマンは、2003年頃に『魔法にかけられて』の監督となることが発表されていた、冒頭で述べた「ケヴィン・リマが監督に決定する前」に降板となった3人の監督のうちのひとりである。

つまりケヴィン監督の「『魔法にかけられて』をラブレターにする」という方針が決まる前にプロジェクトに関わっていた人間であり、その時の冷笑的な作品の印象のまま制作してしまったのではないだろうか。
ただ前作の「過去作のオマージュ」という表層的な部分だけがウケたのだと思い込んで、根底の目的が1と異なる、「機械的なオマージュ」をしたような印象を受けた。



まぁ1の時点でアイデア勝負の博打で、それがなまじ成功してしまった奇跡のような前作から続編を作れと言われてもやれることは限られてるし、そういう意味で今回の監督はハズレくじ引いたな…と同情もできるのだけど(彼は『ホーカスポーカス2』の監督でもある)、やはりディズニーに対しては「前作の制作陣を続投させろ」という気持ちにならざるを得ない。


更に驚きなのが、リマ監督いわく「映画がリリースされた15年以上前から続編の話はあった」そうだ。


また監督はファンの質問に対し、「続編を自分の手で作ることを望んでいたが、ハリウッドの政治がそれを許さなかった」と発言しており、まぁどれだけポジティブに考えてもいわゆる「ポリコレ周りのいざこざ」を考えてしまう。

ケヴィン・リマ監督のYoutubeチャンネルより



まとめ



という訳で、Disenchanted初見感想は「無理」でした。
いや、ほんとに全然「見返したら好きになった」ってなる可能性もなくはないんだけど。


まだ色々言いたいことはあるんだが、やっぱり(いくら呪われていたからとはいえ、)「セオリーでは継母はいつも悪役」というのを根拠にディズニーの血縁主義が批判されていたのに対して「優しい継母もいる」と主人公に言わせただけでなく、実際に「主人公が継母になる」ことでアンチへのカウンターを行った作品の続編で「やっぱり物語の悪役は継母だよな(^^)」をやるの、意味がわからない。


あとやっぱシンプルにおもんなかった。新キャラが全員最後まで「誰?」という感じでひたすら薄い。魔女vs魔女のデュエットのシーケンスはめちゃくちゃ良かったけど、作品全体のつまらなさをカバーする程ではないというか。何度も言うけど「空気の読めないイタい親」を描くならケヴィン・リマ(『グーフィームービー』監督)ほど最適な人選は無かったのに……!



初見はストーリーの方に気を取られてもうメンケン先生の新曲どころではなかった。しっかりサントラは聴く予定です。




でもやっぱり蛇足も蛇足だよなぁこの作品。
諸々総じて「記憶から消したい」作品になってしまった。



ラブパワーで私の記憶も消えないかなぁ….(あれ、ここに見たことのない杖が!)

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ディズニーファンの父親の影響で0歳の頃からディズニーアニメ漬けの毎日を送っています。
一番好きなディズニープリンスはエリック。一番好きなサイドキックはムーシュ。
アランメンケンが自分の第2の父だと勘違いしながら生きてます。

東京のパークも好きで足繁く通います。共通所持。

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